実家倒産の憂き目!!!
いろいろな節目となる2020年
私にとっても、また書道会にとっても一つの分岐点と言えるかと思っております。
私が塾長を務める「拓鶯書道塾」は今年16年目を迎えました
つらつら考えておりましたら、父が作った「拓門書道会」は
今年55年目を迎えることが発覚いたしました
そんな年に、また父林拓翠が作っていた「拓門会報」を復活させてみました
拓鶯塾の方では毎月の課題や、お稽古風景などを会報として会の皆様に配布しております
そのルーツとも言える「拓門会報」は父が長年作っておりました
役を退いたとはいえ、父の薫陶を受け
これまで導いてくれた父の偉大な功績に感謝の日々でございます
父から受け継いだ技術と精神を次世代に繋げるべく
精進して行こうと新たに誓った年頭となりました
55年の歴史を振り返る前に
まず父の歴史をたどってみようと思います
父林拓翠は大正14年7月に群馬は前橋の家具屋に父親亮一、母親いちの元に生まれました
母親は染物屋の娘だったそうです
5人の姉妹の中にはすぐに亡くなってしまったお姉さんもいたので
やっと生まれた男の子としてそれはそれは大切に育てられました
男の子は育ちにくいというので
赤い着物を着せられ女の子のような格好をさせられたとよく申しております
大切にされていた様子が目に浮かぶようです
小学校に入り近所の先生につき書道を始めます
そして県の大会で金賞を取ったりして書くことがとても楽しかったと
父はよく当時を振り返っております
大切に育てられていたのですが
肝心の母親が父が幼い頃から病の床に伏してしまいます
父は幼い頃から母親は常に床に伏していたと言います
やっと生まれた男の子も幼い中
床に伏していた母親の心中はいかばかりかと思います
また、当時父の祖父に当たる人も病気になり
2人の病人を抱えた父親はその看病のために大変な金額を使ったのでした
父が9歳の時に看病の甲斐もなく母親がなくなります
そして周りも父を不憫に思い
勉強をしなくても何も言われなかったようです
父は自分の成績が落ちたのはそのせいだと申しております(笑)
母親が亡くなって、不憫に思った書道の先生が
「月謝はもういらないからお稽古にきなさい」
と言ってくださったのですが
幼いながらも父のプライドがそれを許さなかったようで
それっきり書道をやめてしまいました
母親が亡くなってまもなく
父親の家業が傾き始めました
ほとんどのお金を癌だった母親や祖父のために使ってしまったのです
その後家具屋を閉めて、親戚の家で暮らしたりしていたようです
早くから自立を強いられ、自活して働き出しますがその頃のことは結構楽しそうに語ってくれます
自炊をして、ご飯を炊く時にお芋を一緒に入れて、始めの食事はお芋で、
そして次はご飯を、というように
一人で暮らすのはうるさいことを言う人がいなくて気楽でいい、と申します
本当は寂しかったりしたのだと思います
上京して仕事につき、結婚をして私たち姉妹の登場ですが
父はずっと書道が気になっていて、小学生の時の県大会の審査員であった
豊道春海先生を忘れられずにおりました
豊道先生は日本の書道教育、特に戦後の教育に大きな貢献をされた先生です
その先生の書に40歳の頃、銀座で偶然に出会ったのです
当然のように早速先生のご自宅に伺い、なんとか弟子にしてほしいと頼みますが
当時はすでに弟子を取るのをやめていて
豊道先生のお弟子さんのところに弟子入りし書道を再開しました
豊道先生は何かと気にかけてくださり、父も書道に邁進しました
当時、私たちが小学生の頃、サラリーマンだった父は
朝5時置きして出勤前に毎日1時間書道の練習をしておりました
ピリピリした雰囲気で集中して書いておりましたので
私たちも起きてからもなるべく静かにしておりました
お弁当を持って出勤し、昼休みも15分でお弁当を食べ
残りの時間を書道の練習に当てる、という会社の中でも多分浮いた存在だったと思います
「最初は変わり者扱いされるが、みんな慣れてくればそれが普通のことになるんだよ」
とよく申します
奮励努力とはまさにこの頃の父のことです
一年で師範を取り、周りにも一目置かれる存在になります
会社の方にも書道をレクチャーしたりしており
サラリーマンのかたわら、少しずつ家でも教え始めました
そして55年前、脱サラをして書道塾を始めました
「拓門書道会」の前身である「拓翠書道会」が始まったのです
普段なかなか父のこと、書道会のことも振り返ることなどなかったのですが
この55周年にあたり、おかげさまでいろいろと振り返り書道会の歴史として書きしるすことができて
これもありがたい限りです